気まま法話  「お月さまに何を感じるか」

 9月29日夜は見事な満月、まさに名月でした。私は夕方、運転中に気がつきました。暗く沈んだ屋根や遠くの林の上に、黄色く大きな満月が浮かんでいました。深夜にもう一度外へ出て眺めました。秋から冬に正中する月は高度が高く、室内からは見られません。足下の影は小さく、真上から降る月の光で世界は銀色に染まっていました。

月影のいたらぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞすむ

 親鸞聖人の師である法然上人の作られた和歌です。月影は、千昌夫の「星影のワルツ」が星の光なのと同じで、月の姿、月の光という意味です。月の光はすべての里に届いていますが、月を眺める気がなければ、月の記憶がなくて当然です。眺めようという思いがあった方の心には、満月の美しい姿が残っていることでしょう。

 しかし、この和歌の「心にすむ」のは、ただ美しいだけではありません。もっと深い意味があります。「すむ」は「澄む」と「住む」をかけていますが、何が心に「住む」のかが重要です。同じ月を見ていても、何が心に住むか(=宿すか)は人それぞれ違います。西洋では、満月の夜に狼男は変身し、ドラキュラは満月の光で死ぬ、満月に何か強い力があるイメージですが、日本文化の感覚とは少し違うようです。

 皆さんの心には、どのような満月が住んでいますか。

 眺めてはいても、普通は、ああ美しいなで終わってしまって、満月に感動して心に宿る(=住む)ことは少ないように思います。でも、もし悩みがあって頼る人もなく立ちすくんでいるときは、月の光が行き詰まった心の道を静かに照らしてくれて、涙が流れることもあるでしょう。また、月の姿のなかに、先だった方々の面影が浮かぶときがあるかもしれません。そんなとき、あなたにとって、月の光は特別の光となります。月が私のために輝いてくれる、月が私を励ましてくれると心に響いて、心に住むようになるのでしょう。私も小さい頃、歩いても歩いても月が追いかけてくるのが不思議でした。寂しい夜の道、自分のためについてきてくれるような気になったものです。これは科学的に説明すればたわいもないことです。しかし、私のために照らしてくれているという感覚が大事だったのだと思います。

 法然上人のこの和歌は、このように、月がすべての人を照らすと同時に、月と私とが特別な関係になることを歌ってみえるのです。さらに、法然上人のこの歌は、単に月の光のことを歌っているのではありません。仏さまの光(はたらき)を月の光でお喩えになっているのです。仏さまの光は、すべての人に分け隔てなく届いています。それを私のため、、、、と気づいた(=眺めた)人の心にこそ、満月のように澄みきった想いが宿る(=住む)のです。

 歎異抄に「弥陀の五劫思惟を案ずれば、 ただ親鸞一人がためなり」とあります。阿弥陀仏の救いの光はすべての人に届いてますが、その光は、私だけの苦悩を見据えて、私のために救いを届けてくださると感じられるものなのです。つまり、必ず救うぞという声が、私一人のためと聞こえるような形で、すべての人を救ってみえるのです。少し難しくなりましたが、これから月を眺めたときに、仏さまのことを思い出していただけましたら幸いです。